子どもの虐待死のニュースを見るたび
何かを握り潰されるような感覚になる。
何か出来なかったのだろうか。
その子に。
その母親に。
その父親に。
その両親を育てた祖父母に。
その祖父母を育てたその更に昔のご先祖様たちに。
被害者は1人に見えて1人じゃない。
加害者は、それまでどこかで誰かの、何かの被害者であり、それまで救われることなく生きてきた人たちだ。
その濃縮され、凝縮した痛みを、一身に受けることになってしまう力の弱い子どもを、どこかで救う術はなかったのだろうか。
その子が大人になり、いつかその手に子どもを抱く日が来るかもしれないからこそ
その子を育てるその親を、その人生の中のどこかで救えなかったのだろうか。
無力感。虚無感。
宇宙に浮かぶちりクズ程の力しかない私に出来ることはなんなのだろうか。
センセーショナルな虐待死事件があるたびに
人々は、はっと何かを思い出したかのように小さな箱の中で繰り返されるそのニュースについて思考を巡らす。
そして、予防策を、解決策を、社会への問題提起を口にする。
その時は、必死に。
私とて同じだ。
だって私は、自分で自分が情けなくなるほど、きっと、半年後、一年後…この痛みを、この温度のまま抱えて生きてはいないだろう。
間違いなくここに、投げつけたいほどの思いを抱いているのに。
いつか口内炎のように、何もなかったかのようになるのだ。
その時は痛くて、しみて、違和感だらけで何も食べられないくせに。
治ってしまえば、口内炎があった時の痛みなど忘れてしまうのだ。
「繰り返される虐待」
だけど本当に繰り返されているのは、続かない関心じゃないか。
周りの無関心じゃないか。
大阪で起きた姉弟餓死事件も
3歳児のウサギケージ虐待死事件も
これまで繰り返されてきたのは何なのか。
そんな自分の繰り返される薄情さに私は涙よりも反吐がでる。
痛みは忘れるようにと、人間は仕組まれているのだから、仕方のないことかもしれない。
でも
私たちが忘れてしまったら、今日を必死に生きている子どもたちはどこへ向かうのだろう。
ワイドショーに取り上げられることもなく
今日を怯えて生きている子どもがいる。
認めてもらいたくて
愛してもらいたくて
自分のことを好きになってもらいたくて
必死に我慢し、必死に嘘をつき、抱きしめてもらえる日を必死に夢見て生きている子どもたちがいる。
大人に失望した子どもを救えるのは、大人しかいないのに。
私たち大人しかいないのに。
その時だけで終わりにしてはいけない。
今朝リビングで流れているこのニュースが、1週間後にたとえ流れなくなっても
私たちは忘れてはならない。
人の繋がりが人を救うこと。
自分の存在が誰かを救うキッカケになること。
自分の中にある優しさを、誰よりも自分が信じ抜くこと。
忘れてはならない。
今日街中で言葉を交わしたあの人が
公園で手を振ったあの子が
自分の育てている子どもたちが
いつかどこかで優しさの巡りとなって多くの人に繋がっていくことを。
そして親の権利が強大すぎるこの日本で
子どもの命と権利が何よりも大切に、慈しまれ、優先され、尊重され、守られる日がくることを
ちりクズなりに考え続けていきたいと思う。