子どもの頃、私はよく泣く子だった。
癇癪を起こしてひっくり返り
大声を出してよく泣いていた。
子どもの頃に住んでいた家で
暗い2階の階段の手すりにしがみついて泣き喚いていた時の
涙で滲んだ景色を今でも覚えている。
泣いている理由はその時によって色々だったけれど
私はとてもわがままで
4歳離れた妹に優しくできず
意地悪ばかりして
ご飯もほとんど食べず
母の財布からお金を盗ったり
物を壊したり
嘘をついたり暴れたり
他にも色々悪さばかりして
とにかくよく泣いていた。
母と私のことをいじめていた父方の伯母に
「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれ
「泣き止みなさい」
と、本当によく言われた。
「あなたはこうであるべき」
という独特な空気感の中で
私はいつも息が詰まって苦しかった。
そして、私は母を怒らせて
母のこともよく泣かせていたと思う。
そんな私には大好きな人がいた。
「のぶえのばあば」という、
父方の祖父のいとこ、という関係の、
家系図で言えばとても近いとは言えないおばあちゃんだけれど
私はのぶえのばあばが大好きだった。
小学校に行きたくないと泣く私を
私が引っ越すまでの3年間、毎朝迎えに来てくれて一緒に手を繋いで登校してくれたのは
のぶえのばあばだった。
のぶえのばあばがいたら、安心して何でもできる気がした。
毎週末の土日はのぶえのばあばの家へ泊まりに行き
「ここにいる間はお母さんって呼んでもいい?」
と聞いたら
笑って「いいよ」と言ってくれたのも
のぶえのばあばだった。
私のことだけを見てくれる人ができたみたいで嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
そして
叱られて、怒られて、思い通りにならなくて、悲しくて、寂しくて、嫌で、癇癪を起こして大泣きする私の手の甲を大きな手でさすりながら
「愛ちゃんの声は 泣いててもきれいねぇ。」
と、
目尻に皺をいっぱいためて笑って言ってくれたのも
のぶえのばあばだった。
大人になってからも
いつ会っても
のぶえのばあばはいつも私に
「愛ちゃんには本当に楽しませてもらった」
「愛ちゃんがいてくれて人生が楽しかった」
と言ってくれた。
そんな
私の手をいつもさすってくれたのぶえのばあばが
去年の7月、亡くなった。
亡くなる数日前からのぶえのばあばがいる施設に通い、話しかけて全身を撫で何度も抱きついた。
亡くなる前日には
父と一緒に泊まり込み
一晩寝ずにのぶえのばあばを見守った。
(父は2週間ほど泊まり込んでいた。
父にとってものぶえのばあばは自分の実の母以上に自分を育ててくれた大切な存在だったろうと思う)
意識が混沌として 寝ている時間ばかりの中で
父が「のぶえのばあば、愛子が来たよ!」と耳元で声をかけると
閉じている目をうっすら開け
右手を伸ばして
「・・・あいちゃん?」
と、今にも消えそうなかすれた声で私の名前を呼んでくれた。
あの時の、のぶえのばあばが最後に呼んでくれた自分の名前を
私は一生忘れない。
私が自分の子どもたちに
あなたが大好きだということ
あなたがいてくれて嬉しいこと
あなたはあなたのままでいいこと
を伝えたくてこれまで13年間積み重ねてきたものは
あの頃、そして今までずっとのぶえのばあばからもらったものであったことを
2023年の夏から、何度も何度も思い出しては噛み直し、飲み込み、また吐き出しては飲み込みを繰り返している。
この記事も、
何度も書いては消して書いては消しているし
ふとした時にのぶえのばあばのことを思い出すと、会いたくて、会えないことに、もっと会いに行けてたら、と涙が止まらなくなるけれど
でも
私の中に間違いなくのぶえのばあばは今もいて
これからも頑張った私の頭や
何も頑張っていないただここにいるだけの私の手を撫でてくれるだろうし
私を通して
私の子どもたちのことをもこれからも撫でてくれるのだと思う。
子どもが欲しいもの
子どもに必要なものが何なのか。
誰にでも分かる言葉で
誰にでも伝わるように
私がもらったもの
私が学び続けてきたことを
丁寧に 丁寧に。
私はこれからも
のぶえのばあばが私にくれたものを言葉に、子どもたちに、この世界に残していきたい。
私がもらってきたものを
たくさんの人に還元していきたい。
ただひたすらに 届けていきたい。
あの時、泣いている私の手をさすり
私の泣き声をきれいだと笑ってくれたのぶえのばあばが私に対してしてきてくれたことは
ここにいてはいけないと感じ続けていた私に
「ここにいていいんだ」と思わせるのに 十分すぎたから。