子どもの言葉にならない気持ちについて
私の幼少期の経験、記憶と共に 今、目の前にいる子どもを眺めると
その子がなぜ泣いているのか
なぜ苦しいのか
なぜそんなことをしてしまうのか
どんな言葉を欲しがっているのか
本当は何を欲しがっているのか…
その子が心の奥の奥で必死になって握りしめている言葉にならない想いが、透けて見えてくることがあります。
もちろん、彼らは「私」ではないので
彼らの性格や感性・気質、環境、家族関係、目の動きや、直前の言動、その行為に至った理由など
あらゆる背景を想像することを怠ることはしませんが
子どもの気持ちを想像し、言語化し、共有し、共感する。
そうやって子どもの言葉にならない想いに寄り添いたいという思いは、間違いなく自身が経験したことから生まれたものです。
どんなに悪いことをしたり、ひどい言葉を口にしていたとしても、
その子が叫んでいるのは「誰か私に、ここにいていいよと言って」「助けて」という寂しさであることを知っているからです。
そして、その子の中に生まれた気持ちは 勝手に消えて無くなりはしないということも実感しています。
もちろん、時間と共に薄まる想いもありますが
「自分はここにいていいのたろうか」という不安は、誰かにその想いを抱きしめ、癒してもらわなければ前になかなか進むことはできません。
でも、子どもは「私を救って」と伝えることができません。
そもそもの語彙力が格段に少ないし、自分の気持ちを言語化することがとても難しいのです。
そして、言語化より難しいのは、「今自分の中に生まれた気持ちを認識すること」です。
つまり、子どもは自分の気持ちを自覚できていないことの方が多いということ。
大人であっても、自分の気持ちを自分で正確に把握し、人に伝えることは難しいと感じる人の方が多いのではないかと思いますが、子どもにとって渦巻く気持ちに名前を付けて分類することは果てし無く難しいことです。
そして、自分の本当の願いに気付くことも。
そんな子どもはどうやって自分の気持ちがすり減って行く怖さや、不安を表現するかというと、親に気付いてもらえるようなことをするしかないのです。
気付いてもらえることとは、何か。
それは、親を困らせることだったり、親が怒るようなことです。
そんなことをすれば、必ず自分を見てくれると子どもは分かっています。
怒られても、叱られてもいい。
それでも自分に目を向けてくれるのならば、その方がいい。
無いものにしないで。今ここにいる私の寂しさや、今ここにいる私の存在を、無いものにしないで。
さみしい。私を見て。私を信じて。私を認めて。つらい。苦しい。
私に「ここにいていいよ」って言って。
子どもたちの言葉にならない行動には、そんな切羽詰まった想いが詰まっています。
子どものほしいものはとてもシンプルです。
でも、そのシンプルなことに 多くの大人はなかなか気付けません。
大人には「目に見えているもの」が大きく映って見えるからです。
「目に見えてるもの」は情報量として重く、大人の心を責め立て揺さぶり、なんとかその「目に見えているもの」をやめさせよう、無くさせようという焦りになりやすいからです。
でも、悪く見えるその行動を切り落とそうとしても、別の問題を派生させるだけで根本的な解決にはなりません。
手当てが必要な場所は いつだって目に見えないところにあります。
そして、子どもはいつだって
どこが痛いのかをちゃんと態度で、行動で教えてくれています。
周りの大人が子どもの発するSOSに気付いてあげられたら…
それが早ければ早いほど、子どもも親も家族も早く楽になれると思うからです。
「私のことなんて嫌いなんでしょう」
そんな想いを子どもにぶつけられることがあるかもしれません。
でも、子どもはそれを肯定して欲しくて言っているわけではないのです。
「そんなことないよ」。
「そのまんまのあなたのことが大好きだよ」。
そんな言葉や温もりを子どもは待っています。
子どもの気持ちのささくれの深さが深いほど、傷が痛ければ痛いほど、時間はかかります。
でも、ささくれ立った子どもの心をやわらかくするのは、私たち大人の愛の絆創膏です。
もし、周りに大人から見て困ることをやり続けている子どもがいるなら。
もし、周りに「どうせ私なんて。」と口にする子がいるなら。
「そんなことない。あなたは、私の大事なんだ。」と、
こちらの気持ちをまっすぐ渡し続けてあげて下さい。
そして、時間をかけて、その子を丸ごと抱きしめてあげて下さい。