私の中で
「おーちゃん」は「おーちゃん」であって
おーちゃんに響きやすい声かけや対応をしてきた。
なんでおーちゃんはこんなことで不機嫌になるんだろう?と考えたことはなかった。
それが「おーちゃん」だったから。
「こんなこと」と思ったこともない。
他の誰でもないおーちゃんにとって重大な、感情があふれる瞬間だから、その行き場のない感情を大事にしたいと思った。
じゃあどんな環境を作ろうか。
どのようにプラスの行動を起こしたくなるきっかけを作ろうか。
おーちゃんが自信を持てる関わりって何だろう。
そんなことを繰り返してきた。
だから
「おーちゃんはHSC(人一倍繊細すぎる子)ではないですか?」とメールをもらった時、不思議な感覚になった。
うん、確かにHSCに当てはまる部分はある。
完全なHSCというよりは、HSC寄り、という感じかな?と思うのだけど、この違和感は何だろうとずっと考えていた。
そういう言葉が誕生したことで本人や人に説明する時に「うちの子はHSCで」と言えば「あぁ、あの特徴のある子ね」と理解してもらいやすいというメリットなどもある。
でも、
ラベリングしてこのグループはこの対応、こっちのグループはこの対応。
じゃなくて。
「その子」の特徴に合わせた、その子に適した対応をすればいいんじゃないかなと思う。
そして何より
繊細すぎる子だから否定しないこと、話をしっかり受け止めることが大切なんじゃない。
頭ごなしに叱らないことも、子どもの発言をバカにしないことも、その子が感じたことを否定しないことも、話をしっかり受け止めることも、丁寧に説明することも、どんな子にとっても大切なこと。
「HSCの子にはこうしましょう。」という対応方法は
繊細な気質じゃない子にも当たり前にしてあげてほしいことばかり。
このラベルの子にはこうすればいい なんてない。
その子の不安や喜びに寄り添って
辛い想いを否定せず
じゃあどうしたい?と本人の気持ちを聴き
その子が笑顔になれる方法や場所を探すこと、その子の「自分はありのままでいい」と思える自信を育むことは、どんな状態のどんな子にとっても必要な対応。
「名前のつくラベルが貼られると安心する。」
その気持ちも分かる。
診断され、ラベリングされることで救われる人もいる。そこを否定するつもりは全くない。
でも気づいてほしい。
なぜラベリングされることで救われる気がするのか。
ラベリングされれば
HSCだからこういうもの、と、子どもの言動をある意味諦められたり、許せるようになる。
普通じゃないことを、公的に認められた気持ちになる。許された気持ちになる。
この時許されたような気持ちになるのは「みんなと同じじゃない理由がこの子にちゃんとあった」と、納得できる、人に説明できる、そんな安心感。
つまり「普通じゃないことは認めてもらえない」という恐怖心がこびりついている。
普通じゃないと責められる気持ちになってしまうお母さんの深い苦しさがそこにある。
そこには遠い過去から積み重ねられてきた【みんなと同じ】【普通は】に縛り付けられてるお母さんたちの苦しさがある。
お母さんたち自身も【みんなと同じ】【普通は】に縛られて生きてきた苦しさを持ってるのだ。
ラベリングしていることそのものに違和感があるのではない。
ラベリングしなければならない状態の世の中に違和感があるのだ。
HSCだからこういうもの、ではなく
◯◯(子どもの名前)だからこういうもの になったらいいな。
HSCだからこう対応しよう、ではなくて
◯◯ (子どもの名前)だからこう対応しよう になるといいな。
一人一人の個性・個性と叫ぶ時代なのに
その個性がなぜHSCなどとラベリングされ分別されているのか。
HSCだから自分はこうなんだ。
じゃなくて
自分は自分だからこうなんだ。これが自分なんだ。と思える世界になったらいいよね。
もっともっと自由で、垣根がなくて
自分の個性に悩み苦しまない社会になるといいよね。
そして
その子の不安や喜びに寄り添い
辛い想いを否定せず
じゃあどうしたい?と本人の気持ちを聴き
その子が笑顔になれる方法や場所を探すこと、その子の「自分はありのままでいい」と思える自信を育むことが
どんな状態のどんな子も当たり前に受けられる世界になったらいいな。
それは別にHSCだけじゃなくて。
いらなくない?
そのラベル。
その子に貼るラベルは、その子の名前だけでいい。