大人の私たちがそうであるように
胃の大きさは子どももみんな違います。
みんなと同じ量を、
みんなと同じように食べられない子だっているのです。
親や先生がよそったその量が、
その時、その子の食べられる適量じゃないこともあります。
大人になれば自分の適量を選べるけれど
子どもは、「これくらい食べられるでしょう」と見立てられ、よそられたものを食べるしかありません。
大人の私たちがそうであるように
子どもだって体調が悪ければ食べられないし
不安で心がいっぱいの時は食べることができません。
過去に食べられないことを厳しく怒られたり
完食することを強要されたりして自尊心が傷ついた子は
「また怒られたらどうしよう」という不安から 食事そのものが怖くて食が進まなくなることがあります。
それ以外にも、
お友だちと喧嘩して心がドキドキしていることもあるし
次の授業の発表がうまくできるか心配でドキドキしていたりもします。
「食べられない」には色んな理由があるから
どうか食べ残してしまう子を【単なるわがまま】という一言で片付けないであげてほしいのです。
「あなたがいると食事が片付かない」
「いつまでご飯と睨めっこしてるんだか」
「あなたに作るご飯がもったいない」
子どもの心と胃が縮んでしまいそうな言葉をかけないであげてほしいのです。
冷たい目で、食べられないその子を睨まないでほしいのです。
食べられないその子は
本当は「ごちそうさま」をしてしまいたいのです。
でも、それを言ったら怒られると思っているから言えないのです。
それを言ったら、ママが悲しむと思っているから言えないのです。
ご飯を残すことは良くないことだと、ちゃんと分かっているから言えないのです。
ご飯を残す自分は悪い子だと、
ただ座ってかたくなっていくご飯を、かたくなる心で眺めているしかできないのです。
「工夫次第で頑張ったら食べられる」子は、こちらのアプローチ次第で食べられるようになります。
そういう意味でも、食事の環境やおやつの量を見直したり、子どもが食べやすいように調理や提供の仕方を工夫することはとても大切です。
でも、どんなに頑張ってもそれ以上食べられない子もいます。
食べないのではありません。
「食べられない」のです。
生まれつき小食で。
不安を抱えていて。
叱られてばかりの食事の時間が苦痛で。
そんな子だって いるのです。
胃の大きさ、食べられる量だって
「みんな違って、みんないい」になったらいいのに…と私はずっと願っています。
とはいえ、子どもの健康を願うからこそ
「好き嫌いをなすくために」
「完食させるために」
大人が頑張ってくれていることも子どもはちゃんと分かっています。
だからこそ食べられない自分を責めたり自信を無くしてしまうのですが・・・
でも、
好き嫌いをなすくために。
完食させるために。
その目的のためにその子が食べられないほど嫌いなものを食べるように強要したり、食べ残すことを必要以上に咎めてしまうと
「この食べ物は自分を苦しめるもの」という認識で自分が厳しく叱られて辛かった記憶と結びつき、もしかしたら、いつか好きになれていたかもしれない食べ物さえも、好きになれなくなってしまいます。
完食できないことを叱られてばかりになってしまうと、食事の時間への憂鬱な気持ちが増し、完食することへの自信もなくなり、ますます食が進まないという悪循環になってしまうことも。
これでは子どものことを思ってしていることのはずなのに、本末転倒ですよね>_<
好き嫌いをなくすこと。
完食させること。
その目的って 何のためでしょう。
まず、なぜ私たちは食べるのかというと
生きるのに必要な栄養やエネルギーを摂取できなければ死んでしまうからです。
つまり、食べることは生きることでもあります。
そして、生きるということは
自分で自分の命を肯定できることでもあります。
だからこそ私は食事(食育)の目的は
命を大切に思えるようになること・・・
「自分の命」と「自分を生かしてくれている周りの命」へ感謝をし、命を大切に思えることだと考えています。
食に対する感謝は
命へ感謝すること。
そしてこれらを学ぶことが「食育」なのではないかと思うのです。
けれど自分の食の時間が恐怖なものでしかなくなってしまった時
自分の存在(自尊心)を否定される言葉を投げかけられ、自分の命に感謝できない状態で、食(周りの人や生き物の命)への感謝の気持ちなど湧き上がるはずもないのです。
「もう限界」で「食べられない」のなら
どうか
「いいよ。」
と、応えてあげてほしい。
「大丈夫。
いつかきっと食べられるようになるよ。」
「ここまでよく食べたね。」
そんな風に笑いかけてあげてほしい。
その一言で
子どもの心は泣きたくなるくらいに安心できるから。
そして安心することができたら、
そこから少しづつ何かが変わっていくから。
だから、苦手なものは頑張って一口食べたらOK!くらいでいい。
最悪、どうしても無理なものなら食べなくたっていい。
その場に座り、目でみて、触ってみるだけでも立派な命との関わりです。
もしかしたら食べられるようにはならず、一生苦手かもしれないけど、
そんなこと、大したことじゃありません。
子どもが食事の時間を好きでいられるのなら。
自分の命を生かす時間を好きでいられるのなら。
そんなこと、大したことじゃありません。
「精神状態」と「食」
「生きること」と「食」って直結しているからこそ
食べられなくて食事の時間にしんどい思いをしている子どもたちに私は伝えたい。
子どもの頃、食事の時間が苦痛で仕方なかったあなたに伝えたい。
食べられないものがあることは
おかしいことじゃないよ。
みんなと同じ量を食べきれないあなたが
おかしいわけじゃないんだよ。
大丈夫。
あなたと一緒に食べるご飯は、ちゃんと、とてもおいしいよ。
心をかたくしなくて大丈夫だよ。
ご飯を 怖がらなくて大丈夫だよ。
ご飯を残してしまう自分を
嫌いにならなくていいんだよ。
あなたは決して悪い子なんかじゃないよ。
大人は「子どもに絶対完食させなくちゃ」という呪縛からもう解放されていいし
子どもたちは「絶対完食しなくちゃ」という呪縛から解放されていい。
大切なことだけど、食事の目的もゴールもそこじゃないからね(*^^*)
(そこを頑張るのはその子にとって食事が楽しくなってから。)
それで食卓に笑顔があふれ
家族の会話を楽しむ余裕が生まれ
子どもが次の食卓を待ち遠しく感じて
その席に座っている自分の存在を肯定できるようになるなら
その方がよっぽど、命に感謝する心が育ち、
自分の命を好きになれる最高の食育になるはずだから。(*^^*)
お腹が空いたら
その時食べたらいいじゃない(*^^*)
食べられない子を責めたり、蔑んだり、見せしめにしたりするのではなく
家族で、クラスで、分け合い、助け合い、大きな単位での完食に向けてカバーし合えたらいいなぁと思います(*^^*)
いつかきっと、その子のペースで食べられるようになるから。
子どもに望んでいる行動は同じ(ご飯を食べて欲しい)でも
子どもの恐怖心を利用したアプローチは親が望む真逆の結果になったりします。
それはまるで北風と太陽のお話のように☺︎
子どもは安心と共に動き出せます。
いつも。どんな時でも。
そして子どもが自分から動き出せるようになるには順番があります。
子どもに望むことと、それに対するアプローチが真逆なものになっていないか。
そこに子どもが自分から動こうと思える『太陽』があるかどうか。
是非そこを見直してみてください(*^^*)
私自身の幼少期の「食べられない」経験と
幼稚園で今時こんなやり方をする先生がいたんだ…と驚くほど、給食指導がトラウマとなり小学校入学当初に「給食がこわい」と泣いて行きしぶりをした娘を持つ立場としても
そして、春になると寄せられる
「子どもが給食に苦手意識があって小学校入学後行きしぶります」
と、悩まれているお母さんと、不安でいっぱいの子どもたちの話を聞く度に
今一度、家庭でも、保育の現場や幼稚園・小学校の給食でも
子どもに完食を無理矢理強いるやり方や
そこはかとなく漂う「みんなと同じ量・同じものを食べられないことは悪」とする考え方について
そして本当の食育とは何かについて 考えてもらえたらと願っています。
・もしくはよそった後、いただきますの前に「おへらししたい人は今できるよ」と、減らすタイミングを作ってみてください。(学校ではこのやり方をしている所が多いかな(*^^*)?家庭でも使えます!)
・なるべくその子が食べ切れる量(どんなに親から見て少なさそうに見えても)をよそって「自分は完食できるんだ!」という成功体験をたくさん積ませてあげてください。
もっと食べられそうならおかわりで更に自信アップ♪
・「苦手なものがあってもいいんだよ。少しずつ練習してみよう。ママにだって苦手なものあったよ。大丈夫!あなたもいつか食べられるようになるよ。」と未来に向かって安心できる声かけを♪
・「あなたと食べるご飯は美味しいね」と、たくさん会話をして笑いかけてあげてください♡
食事は、人間が健やかに生きていく上で必要不可欠なものです。
そして心の不調は 「食べること」に顕著に現れるから。
その食べるチカラが、どうか弱まったりしませんように。
1日に3回ある食事の時間が
子どもにとって楽しいものでありますように。
食事の時間に自分はここにいていいのだと、
あなたが あなたの命を大切に思える時間でありますように。
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